小説 『今拓く華』 海の華 (1)「冬の華」は「海の華」の続編である 「春の華」は「冬の華」の続編である。彷徨する省三の青春譚である。書きながら推敲していきますので、その変化を・・・。 (ブログの都合で1字落ちが出来ませんが、それを載せます) 海の華 (1)(省三の青春譚) 海の華は波に遊ばれ彷徨い、やがて藻屑となって消えていく・・・。 1 海が朝を迎えた頃、夜汽車は山陽本線の塩屋という駅舎に着いた。 ホームに降りたのは省三と省三の叔父の角次、それに十五人の男たちであった。 「おおさむうー」誰となくそう言い手袋の上から手を擦り白い息を吹きかけた。省三はジャンパーの襟を立てた。男たちは足早に陸橋のほうへ急ぐ角次の後について歩いていた。省三は角次の重いボストンバックを提げてみんなの後にいた。まだ周囲は薄暗かった。プラットホームには等間隔に裸電球が薄暗い明かりを落としていた。その明かりは朝空けの光の中に溶け込んでいた。陸橋の上から海が見えた。東の空には紀伊半島に上る朝日が真っ赤に燃え、波は黄金色に輝いていた。岸に打ち返す波の音が静まり返っている町を包んでいた。小さな明かりを点けたいくつもの漁船が港へと海を渡っていった。 ぞろぞろと足を引きずるような一団は人気のない駅前の細い路地を賑やかに通った。前や後ろで話し声がし笑いが弾けていた。 その時店の表戸が引かれ中年の男が眠そうな顔を覗かせ男たちを見つめた。が、男たちの目が一斉に男に向けられて直ぐに顔を引っ込めた。 男たちの服装は背広にネクタイ、その上にコートかオーバーを着ていた。ボストンバッグかスーツケースを提げていた。 新開地が、福原が、元町がと男たちは言葉に端に名前を挙げて猥談に花を咲かせ黄色い歯を見せて笑っていた。農繁期を終えての出稼ぎ人夫であろうと省三は思った。省三の住む所とあまり離れていないことは言葉の端々から分かる。まるで団体旅行のような雰囲気で心を開放させていた。 先頭の角次はハンチングを深めに被り、男たちの喜声に頬を歪めながら、背を丸くして両の手をズボンのポケットに突っ込んで歩いていた。(2005/10/09) 海を前に山を背にした細長い町だった。山肌には別荘風の建物がしがみつくように建てられ、山陽本線と第二国道を挟んだ海岸線に沿って同じような洋館建築が並んでいた。 陽はとっくに上がり海沿いの町には朝が訪れていた。波が繰り返し繰り返し岩に砕け砂浜を洗っていた。単調な波音だった。白いマストに帆を張ったヨットが朝靄の中を滑る様に渡っていた。 伊勢湾台風で崩壊した堤防を修復するのが角次の仕事で、男たちは土方として雇われて、省三は帳面付けとして来たのだった。 飯場は国道に面した別荘と別荘の間にあるガソリンスタンドの裏にあった。トタン屋根のバラックが三棟あった。雨と風が凌げればいいという粗末なものであった。 角次は男たちを三十畳ほどの大部屋に集めた。その部屋には前からいた十名ほどの人がてんでに布団を敷き眠っていた。男たちは部屋の数箇所にあるストーブを取り囲んだ。 「少し眠っておけ。昼からコンクリートうちをやるからな」と角次は濁声で言った。男たちは棚に荷物を置き隅に積まれた布団を空いているところに広げ、そのまま横になった。 「省三、お前も呆けっとしとらんと眠っておけ」 角次はそう言ってボストンバッグを提げて出て行った。省三はその後姿を見送った。(2005/10/09) 男たちはもう安らかな眠りの中にいて、高い響きの鼾をたてていた。省三は布団を出して横になったがなかなか眠られず何度も寝返りを打った。夜汽車で僅かにまどろんだだけであったので眠りの中へ入りたいと懸命に目を瞑った。がそれは徒労に終わった。しばらくすると異様な臭気を鼻腔に感じた。それは布団に浸み込んだ他人の体臭であることに気がついた。それが気になりだすと余計に眠られなかった。 海に広がる潮騒と焼玉エンジンの音が妙に寂しさを募らせた。省三は起き上がり部屋を出て堤防の上に立った。潮風が凍てつくように肌を刺してきた。 二号線に車が走り、山陽本線に列車が通過し一瞬海のあらゆる音を消した。 こんなに近くに海を見、波の音を聴くのは小学校の夏の臨海学校のとき以来であると思った。 打ち寄せる波の単調に繰り返えされる音は省三の心を孤独にした。少しの間堤防に立っていたが砂浜に下りた。黒い砂浜を波が洗い七色の油の皮膜が鮮やかに広がった。 少し歩いたとき寂しそうに肩を落として東の空を見る中年の小柄な男が映った。男は気配を感じて振り返った。男の両眼には涙が溢れ頬を伝っていた。省三は目線を落とした。 「あんたが親父さんの甥の省三さんかい」潮焼けした声であった。 「はい」と言って少し引いた。 「今日の、いや、今のことは見なかった事にしてくれ」男は海の方を向いて言った。 「はい」小さな声だった。 「俺は山中善太郎だ、よろしくな」 「省三です、よろしくお願いします」 「まあ、のんびりとやろうよ」 善さんが振り向いた時の目は柔和になっており口元が緩んでいた。 「じゃあ・・・」 善さんは少しはにかんだ様に言って砂浜を見つめながら歩き階段に消えた。善さんの肩は寂しそうに何かを語っていた。 省三は砂を踏みながら太陽に向って歩いた。堤防が大きく崩れ別荘の庭を噛み砕き、波がその下に打ち寄せていた。風と波が残していった爪あとを省三は見て回った。工事は三分の一も捗っていなかった。海岸線には同じような別荘がペンキの色を代えて建っていた。 その時、見上げていた別荘のカーテンが引かれガラス戸が開いた。 「*****」外人の若い女が顔を覗かせて省三に向って叫んだ。省三は訳が分からずに立ち竦んだ。女はベランダに出て来た。パジャマ姿で手摺りに身を乗り出すようにしてなにやら喋った。省三は慌てて逃げようとした。 「逃ゲナイデ」女は日本語で叫んだ。 「アナタハ、コンナニハヤク、ソコデナニヲシテルカ」女は省三の慌てる姿が面白かったのか笑顔で言った。 「仕事です」声が震えていた。 「シゴト・・・」 「はい」 「ネームワ」 「省三です」 省三は勇気を出して女を見上げた。二十歳くらいに見えた。パシャマ姿を通して発育が窺がえた。省三は急に恥ずかしくなって振り返り足を速めた。 「ショウゾウ・・・」 女の声が背にぶつかり落ちた。省三は走った。足元で白く泡立って広がり消える波があった。 飯場に帰ると若い女と年老いた男が朝飯の用意をしていた。女はせっせと釜戸に木っ端を投げ込み、男は幾本もの大根の漬物を切っていた。女が省三に気づきにっこりと笑った。男は鋭い視線を向けていた。(2005/10/10) 2 省三は誰が何時から何時まで仕事をしたかを手帳に書き込み、それを労務台帳に記載し、賃金計算をするのが仕事だった。 この現場には、現場監督の鳴海と事務の高山、班長の角次夫妻、大工に鳶に土方、賄い夫婦の総勢五十人ほどであった。 鳴海は図面を覗いて測量をし、直ぐ何処に行くのかいなくなった。元町の女のところへ行くのだという噂があった。高山は工事材料の調達と経理全般の仕事をしていた。工事現場を見ることもなく神戸のダンスホールに浸かっていた。 角次は現場を見て歩きそれ以外のときはオートバイを磨き町に出て行った。 工事は昼夜進められた。 工事は潮の満干で左右された。潮が満ちているときは休みだった。干いた時に鳶が海岸に鉄のパイルを杭打ちし、太い鉄筋を縦横に組み、足場丸太を立てた。大工がパネルを打ち据えナットで締め上げる。足場の上にバター板を敷きレールが走り、土方の押すコンクリートと入ったトロッコが行き交う。コンクリートミキサーは重い唸り音を出してガラガラと回った。サーチライトとガス燈がその風景を照らし出していた。 十一月下旬の海辺は潮風が冷たく、夜になるとスコップを握る手も悴み、モッコを担ぐ肩も軋んだ。 省三は砂浜で焚き火をして見ていた。サーチライトが煌々とした光を放ち、足場丸太の所々にぶら下げられたガス燈は蛍火の様に青白い灯かりを落としていた。その光は海にこぼれ夜光虫が群がっているように見えていた。 「省三、どんどん燃やしとけ、もう直ぐ小休止をするからな」 ニッカズボンを穿いた角次が足場の上から叫んだ。 砂浜の人夫たちはパネルの上にモッコを担いで砂を運びバラスとセメントを混ぜ、その上から水を入れスコップで捏ね上げた。それをスコップですくいパネルの中へ投げ込んでいた。上では数人の人夫がパネルの中に長い竿を差してコンクリートをまんべんに行き渡らせていた。スコップの背でパネルが激しく叩かれた。 それらの騒音は単調な波の音に溶け込んでいた。 「あと少しだ、パネルをもっと力を入れて叩け、その音では隅々までいっとらん、お前ら何年この仕事をやっとんだ」 角次が大きな声を張り上げた。 省三は木っ端を投げ込み石油をかけた。火勢は火柱となって夜空を焦がした。黒い煙は吹き上がり暗闇に呑まれた。 「ショウゾウ・・・」その声に省三は振り返った。 炎の向こうに人影が僅かに見えた。省三はその人が誰だか直ぐに分かった。 省三は少し砂浜の方へ移動した。間近に見ればまだ幼さを残した貌だった。下半身をぴったりしたジーパンで包み白い徳利のセーターを着ていた。髪は背に自然にたらし頬に幾つものそばかすが散っているのが見えた。なぜか省三は冷静に見ることが出来た。 「ミスター省三・・・」少女はふたたびそう呼んだ。 「喧しいですか・・・」滑らかに声が出た。 「ハイ、デモイイデス。波ト風ガ庭ヲ崩ス時、大変ニ怖カッタカラ・・・」 少女は笑顔で言った。 「そうだったでしょうね」 省三は短く応え暗い海へ視線を向けた。海を渡る別府航路の豪華客船が不夜城のように見えた。 「アノミーワ、キャサリン十六歳、ヨロシク・・・」 キャサリンは右手を省三の前に差し出した。手を握ったとき小刻みに揺れた。それは寒さの所為ではなかった。 「省三、ヨカッタラアスニデモアソビニキテクダサイ、ニホンノボーイフレンドイマセン・・・私寂シイデス・・・」 「・・・」省三はじっと見つめていた。 「デワ、ヤクソクシマシタヨ」 「・・・」省三は頷いていた。 「デワ、サヨナラ」 キャサリンは手を離して砂浜の暗闇の中へ消えて行った。 その後姿を省三は放心したように眺めていた。省三の手にはキャサリンの温もりと心臓の鼓動が残っていた。(2005/10/10) 3 ガラガラという牌の音で省三は目を覚ました。 省三は賄いの夫婦がいた小部屋に移っていた。女がぷいといなくなり、その後を追うように男も消えたのだった。 周りは冷たい空を灰色に変えようとしている頃であった。朝の六時まで引き潮の中コンクリート打ちが続いたのだ。風呂に入り、朝飯を食べ、洗濯をして布団に入ったのは十時を回っていた。 省三は万年床より蓑虫が殻を破って這い出すような緩慢な仕種で起き上がった。 省三は階段を下りた。粉のような砂が風に舞い足に纏わり付いてくる。西空には黄昏の中僅かに太陽の残り陽がオレンジ色に輝き、砂浜に干してある洗濯物が風に弄ばれるのを照らしていた。 省三はすばやく洗濯物をしまい胸に抱えて帰ろうとした。その時足元で波に漂う花束を見た。数日前、若い夫婦が昨年この浜で亡くなったわが子のために流がした供養花であった。二人で波に花束を浮かべ男は遠くの海辺に眼差しを投げ、女は砂浜にしゃがみこんで砂を指の間からさらさらと落としていたのを、省三は不思議な気持ちで堤防の上から眺めたのだった。その光景に一瞬胸に熱いものが溢れたのを覚えている。省三は花束を海から奪い取るように手にして砂浜に立てた。 「省三、何をしとんや」 高山はあばた貌を緩めて堤防の上から声をかけてきた。 「何でもありません、洗濯物を仕舞いに・・・。それに夕焼けがとても綺麗いじゃけえ見とれてたんです」 「夕焼けくらい毎日見とろうが」 「海に沈む夕日はそんなに見ておりません」 「ワイは子供の頃から見とるからなんとも思わんが、省三はロマンティクやの」 高山は日生諸島を魚場に持つ網元の息子で、東京の大学を出てK土木に入りここへ来ていた。 「それより、今日外人の別嬪におうたんや」 高山らそう言われて省三はドキリとした。昨夜の約束を思い出した。行こうか行くまいか迷っていたのだ。 「省三、お前しっとろうが」高山はにこにこしながら言った。 「いいえ知りません」 省三は高山にキャサリンとのことを知られたくなかった。知っているといえば紹介しろと言うに決まっていた。キャサリンのことは秘密にしておきたかったのだ。 「本当か・・・嘘をついてもすぐ分かるんやで。その別嬪は省三のことしっとったで」 「ほんまに知らんのです」省三は強く言った。 「今日の昼間、向こうの崩れた堤防の測量をしとったら別嬪が庭に出てきて省三はどうしていると尋ねよったで、嘘はいかん、なにかあったんか」 高山の目が光っていた。獲物を狙う猟師の目だった。省三はドキリとし、そこまで知られているのならいわなくてはと思った。 「一度だけ会いました。ここに来た朝、砂浜を歩いていると声を掛けられました」 「それだけか・・・」 「ええ」 「こいつ隅におけんのう、ええことしょつてからに」 「なにもしておりません」 「外人の女はませるけえ、省三の童貞を奪われるかもしれんで・・・。けど外人でもあれだけの別嬪は珍しいで。さすが神戸や」 省三は昨夜のキャサリンの手の温もりを思い出していた。 「これから神戸に行くんや、一緒にどうや」 省三はその言葉が聞こえないふりをして階段を上がった。 「おもろいところを見つけたんや、ええ女もいたで」 「今日は大潮で仕事も長いし、飯食べて少し寝ようと思います」 「そうか・・・あの外人の裸でも想像してマスでもかけばええんや・・・けどわいはあの別嬪をものにするで」 と高山は言って事務所の方へ消えていった。 高山に押さえ込まれるキャサリンの姿が省三の頭を掠めた。そんなことは出来るはずがないと打ち消そうとしても、高山の貌が笑っていた。省三はキャサリンに逢って高山のことを注意するように言わなくてはと思った。 省三は洗濯物を部屋に投げ込んで大部屋の方へ回った。窓の傍でジャン卓を囲んで牌を摘み口撃を盛んに応酬していた。反対側の隅には省三と同じくらいの歳の順二郎が、トランジスタラジオを抱えイヤホーンで聴きながら目を瞑り足でリズムをとっていた。 省三は順二郎の肩をゆすった。順二郎は顔を向けイヤホーンを外した。 「順ちゃん、何処にも行かないのですか、仕事は十二時からですから・・・時間はありますよ」 「金がねえ、金がないのよ」順二郎は上品な顔を崩して言った。飯場の住人には見えなかった。 「それによ、少し眠ってなくてはね。十二時を回った仕事は金になるが体にはきついよ。寒いし飯食って起こしてくれるまで寝るよ」 順二郎は安田といい二十歳と労務台帳に記載されていた。前借がないのは順ちゃんと省三と一緒に来た男たちで、前からいる男たちは何ヶ月も前借があった。 順二郎は省三に手を上げてごろんと横になった。 部屋には三箇所にストーブが置かれその上で薬缶が湯気を立てていた。それを囲むように十数人の男たちが眠っていた。その人たちは省三と一緒に来た男たちで、マージャンをしている男たちは前からいる人たちであった。外の人たちは夜の街へ出かけているらしかった。 「省三! どうだ」その声に省三は振り返った。奥の布団置き場の前で一升瓶を前にして胡坐かきコップ酒をしていた善さんが声をかけたのだった。 善さんはいつも酒を飲んでいた。潮焼けが酒焼けかわからないほどであった。 目は混濁して輝きをなくしていたが現場に立つと猫の目のように光った。 「俺の現場で一人として怪我人はだしゃしねえ」それか善さんの口癖だった。 省三は善さんの前に立った。 「どうだ」善さんは酒の入ったコップを突き出した。 「呑めないんです」 「なに呑み方をしらねえ?」 「そうじゃないんです、呑めないんです」 「座れ」 「はい」省三は素直に座った。 「幾つになる」 「十七ですが」 「じゃあ練習するんだ・・・俺なんか省三くらいのときには一升空けたものだ」 「それよりあんまり呑んだら仕事が出来なくなって・・・親父さんに・・・」 「省三、俺に説教垂れようと言うのか」 「そうではありません、善さんの体が・・・」 「省三、有難うよ。だがな、呑みたいときに呑めるってことが人生の花よ。・・・省三ここに来て何日になる・・・」 善さんは酔った目を据えて省三を睨み付けた。省三はその目の奥に、朝の誰もいない砂浜で海を見つめて涙を浮かべていた光を見たように思った。 「今日で二十日になります」 「そうだろう、それだったら少しはおれ達のことを知ろうとしろ」 「知ろうとしろ・・・」 「省三はしっかりしているが・・・俺たちとの間に一線を引いている、大工や人夫じゃないと・・・」 「そんなこと・・・」 省三は思い当たるのか声が途中から消えた。 「ここを腰掛だと思っている証拠だ。そんなことでは何処に行っても役立にたたず仕事の出来る人間にはなれねえぞ。・・・モッコの重さを知っているか、棒が肩の骨に食い込んでくる痛さを知っているか、よろけて土に這い蹲る辛さを・・・。人の前に立ってやろうとする人間はその痛み辛さを知って耐えなくてはならねえ」 省三は黙って聴いていた。 「どうして酒を飲むか、呑まなくてはおられないか、そこのところを理解しねえと人は使えねえぞ」 善さんは滑らかに喋った。仕事中は無口で唇を真一文字に閉じ、人夫たちの動きを睨みつけていたが、酒が饒舌にさせているのだろう。 「はい、分かります」省三は鼻をすすっていた。 この二十日間省三は角次に言われるままに仕事をしていた。人夫たちの立ち振る舞いを見ているだけで、どのような心で生活をしているかを知ろうとする努力はしてなかった。酒と博打と女、それをだけを生甲斐に生きていると思っていた。省三の頭の中に二十日間の出来事がめぐっていた。 「酒は一概に気違い水ではねえ。疲れを癒し、痛み苦しみを忘れさせてくれるものだぜ。・・・時々この部屋を覗きな、そして、話し笑い泣きな、そうすりゃあ、ここの人間の心の隅々まで見え読めるというものだぜ」 善さんは茣蓙の上にコップを置いて一升瓶から注ぎ、顔を近づけて啜り上げ、手で持ち上げて一気に飲み干した。善さんの顔がいっそう赤黒くなった。目はぎらぎらと輝き始めた。 善さんは角次の弟分のような存在であった。小頭という身分で角次がいない時は工事の手配をし進行の号令をかけた。 善さんは「黒田節」を歌い始めた。この歌が出ると酒量に達しているのだった。今日のように絡んでくるようなことはなかった。そんな善さんだったが角次より人夫たちに親しまれていた。 「誰が、誰が本当のことを知ってるというんだい。知るもんか、知るものか」 善さんが突然寝言のように叫んだ。それは善さんの心に蹲るものにたいしてのようであった。 (2005/10/11) 4 省三は懐中電灯で砂浜を照らしながら歩いた。 善さんは喋るだけ喋ると枯れ木が倒れるように横になった。善さんの言葉が省三の心の中でくり返されていた。暗い海を渡る船の為に光り続ける灯台のように思えた。何か考えなくてはならないその指針を投げかけてくれたように思えた。 今日も別府航路の豪華船が汽笛を長く鳴らして海を渡っていた。 「八時か」省三はそれを見て呟いた。 「省三」キャサリンの声が降って来た。 キャサリンは崩れかけた庭に立っていた。家の明かりがその姿をくっきりと見せていた。省三は近寄っていった。 「来テクレタノデスカ・・・パパトママワパーティーデイナイ」 省三はその言葉に躊躇し迷って黙り込んだ。 「シンパイハイラナイ、少シ話ヲシテ行ツテ欲シイ、省三、オ願イ」 「それは・・・僕はこれから夕食を食べて・・・十二時から仕事があるから少し・・・」 「省三ワ約束ヲ破ルノデスカ」 「約束?」 「昨日、約束シマシタ。食事ワ出シマス、私一人デ食ベルノサビシイデス」 省三は善さんの事を考えていた。寂しい、その言葉が善さんのいいたかった総てではなかったかと思った。 「ソレジャ、ミスター高山ニオ願イショウカ」 「それは困ります。あの人には近寄らないほうがいい」 省三は慌てて言った。 「デモ省三ノボーイフレンドデショウ」 「ええ、だけど、怖い人ですから」 「ミーワ、勇気ノナイ人嫌イデス。デモ省三ワ別デス・・・。省三、ドウゾ」 キャサリンは省三を執拗に誘った。 その時省三は砂浜を踏む足音を聞いた。振り返った。黒い上下の背広を着た大工の石原が近づいていた。 「石原さん、お出かけですか」 省三は何か悪いことを見つかったような気拙さを言葉に代えた。 「うん、ちょっとな・・・」 石原は一瞬立ち止まり省三をちらりと見て言った。 「仕事の時間までには帰って来てくださいね」 「うん・・・じゃあ、うまくやんな」 石原はそう言い残し急いで東の砂浜へ消えていった。省三はその後姿に何かを感じていた。 「ドウスル、サァ、遠慮ワイリマセン、パパトママニワ省三ノコト話テアリマス」 省三は今まで若い女性と一対一で話したことがなかった。胸に激しい動悸を感じていた。 「少しの時間なら」 「サンキュー、ヤハリ省三ワイイ人」 キャサリンに導かれて省三は家に入った。映画でしか見たことのない家具と調度品が置かれていた。マントルピースの上に肖像画が掛けられてあった。その前に立ってじっと眺めた。 「ソレワ、ミーノグランドファザーデス」 暖炉には赫赫と燃えていた。省三はロッキングチェアーに腰を落として辺りを見ていた。キャサリンはコーヒーとケーキを運んで来てソファーに座った。 「コノルーム二、ニホンノボーイフレンド、ハジメテデス」 省三にはどう見てもキャサリンが十六には思えなかった。背丈は同じくらいだが、大きく見えた。胸の大きさ、腰のくびれ、ヒップリ張りのよさ、金成とした脚の線は、ニホンの同年の女性にはないものだった。 省三はここに来て始めての友達が外国の女性であることに戸惑っていた。 「それは光栄です、と言わなくてはならないのですね」 「コウエイ?」 「嬉しいと言う意味です」 「ソウデスカ、ソレデワ、ミーモ、光栄デス」 キャサリンは笑って言った。 省三はキャサリンの体臭に胸が苦しくなっていた。 「ドウゾ、メシアガレ」 「有難う、キャサリンは日本語が上手だね」 「ハイ、此処二来ル前二、横浜二イマシタ。パパワ、貿易ノ仕事ヲシテイマス・・・。 ミーワ、日本ノボーイフレンド出来テトテモハッピーデス」 「それで何を話せばいいのでしょうか」 「ハイ、時折話シ相手二ナッテクレレバ嬉レシイ・・・。ミーワ、アノ朝、省三ヲ見タ時好キニナリマシタ。ナンダカ寂シソウデシタ、トテモ省三ノ顔・・・」 「母を残してきましたから・・・」 「ママヲ・・・。ソレハイケマセン。キット寂シガッテイマス。時々帰ツテアゲルベキデス」 「ええ、この仕事は来年に一月いっぱいですから・・・一度正月には帰ります」 「ソウデスカ、一月ガ終ワレバ・・・」 キャサリンは小さく言った。 「はい、その約束で来ていますから」 「ソレワ困リマス、折角フレンドニナレタノニ・・・」 「でも仕方がありません。・・・僕も、ここに来てキャサリンに逢えたこと良かったと思っています。・・・それまで時々来て話し相手になります」 「嬉シイ、省三・・・」 キャサリンが省三に歩み寄り唇を重ねてきた。大きな一枚ガラス戸は潮騒を消し暗い瀬戸内海の海を映していた。(2005/10/12) 5 省三はキャサリンと夕食を食べ部屋に戻った。男と女の係わり合いがこんなに簡単に行われていいものかと考えた。キャサリンへの慕いが段々心に広がっていった。欲しい、その欲しいという気持ちが怖かった。 「ドウシテ、日本ノ人ワ、私達オ珍シイ物ノヨウニ見ルノカ。私達ワミンナ兄弟ト教エラレテイマス」 省三はキャサリンの言葉を思い出していた。 「おおい!省三いるか」 角次が部屋の板戸を叩いた。その声で省三の思いは吹き飛んだ。 「ハイ、いますよ」 省三は慌てて板戸の掛け金を外しあけた。 「石原は何処へ行ったかしらねぇか」 日焼けした角次の顔の中の目がギラついていた。 「知りません。六時前だったか砂浜で会いました。仕事の時間までには帰ってくださいといいました」 「ふん。サッが来とるんじゃ、雇用名簿を持って直ぐわしの部屋まで来てくれ。・・・何かありゃ探りにきゃあがる・・・。ここを悪のたまり場のように考えてやぁがる、まったく嫌になるぜ。早くしろ」 警察は一週間に一度の割りで飯場を覗き入った人夫と辞めていった人夫のことを調べた。 省三は机の上の雇用台帳を持って角次の部屋へ急いだ。 征服の巡査と私服の刑事が角次の 部屋の前に立っていた。 「ご苦労様です」省三は頭を下げて言った。 「石原はどこへ行くとも言わなかったんだな」 角次が念を押すような言い方をした。いつもの角次の口ぶりではなく目が何かを語りかけているように思えた。それは滅多なことを言うなということなのかと省三は悟らせようとしていたのだ。 「はい、何処へとは・・・」 「変なそぶりはなかったかね」 私服の男が低い調子で言った。 「いいえ、何時もの通りでした」 「石山・・・ここでは石原はいつも夜には出かけていたのかね」 「分かりません、でも、仕事はきちんとしていました」 「そわそわしていたとか、沈み込んでいたとか・・・」 制服の巡査が言った。 「そう言えば・・・」 「そう言えば・・・」 私服の男が反復した。 「何かよそよそしかった・・・」 「省三!」 その時角次が大きな声を上げた。 「ふん。気づかれたか、遅かったか」 私服の男は爪を噛みながらいらいらと歩き回った。 「何時ごろでしたか」 「五時前だな・・・省三が砂浜で会ったのは・・・」 角次が傍からそう言った。 「まずいな、服装は」 「ニッカズボンにジャンパーだと言ったな」 角次は省三に何も言わせなかった。 「どちらの方へ」 「国道へあがったと・・・」 角次は指差して言った。 そこまで聴いて、二人は飛びだして行った。 「おやじさん、石原さんに何かあったのですか」 角次は苦り切った顔で、 「馬鹿なやつよ、三角関係の縺れから殺ったらしい・・・。女なんか履いて捨てるほどいるというのに・・・。惚れてしまやあ何も見えなくなる」と言った。 「男も女も哀れな、哀しい生き物よ」 何時の間に来たのか省三の後ろで善さんが言った。手には酒の入ったコップを持っていた。角次はうつむいて黙り込んでいたが顔を上げて、 「省三、よく覚えておくのだ。ここでは自分のことしかわからねえ、他人がどんな服を着ていようが、何処へ行くといったか・・・。どんなことをしてきた男であろうが知っちゃあいけねえ、知っていても他人に言っちゃあいけねえ。ここじゃあ、善も悪ねえ・・・。あるとしたら仕事の出来る奴と出来ねえ奴だ。とにかくここじゃあ、自分のことがわかりゃあいいのよ、それだけでいいのよ。・・・早く帰って休め」と角次は吐き捨てるように言った。 省三は砂浜に降りていった。二十日月が波の上で揺れていた。僅かにこぼれた飯場の灯かりが海に落ちていた。長靴の下で砂が鳴いていた。 省三は出来上がった堤防を古里の刑務所の塀のように眺めた。 「おい、省三」 善さんがぶらぶらしながらガス燈をぶら提げて近寄って言った。 「男にとって女は極楽でもあり地獄だよ。石原は地獄の中にいたのよ。地獄は最初甘い蜜の味がする。それが段々と心を狂わせる。そうなりぁもう地獄の中にどっぷり浸かっているのよ」 「善さん・・・」 「少し歩こうか・・・。みんな地獄の入り口を彷徨っているのよ。ここにいる奴はみんな地獄の味を知っている奴よ。常識なんか通用する世界ではないよ。地獄にはそんなものないからよ」 「善さん」 「みんな地獄の味を味わいたいから金を稼ぐのよ。・・・この現場だって工期は決まっている、そのためには悪と分かっていても仕事の出来る奴が欲しい・・・。 働かしゃあいいのよ、こき使って地獄で遊ぶ金をやればいいのよ、多少のことは目を瞑って、地獄の切符を買う金をやればいいのよ。そう割り切らなくてはここでやって行けねえょ」 「地獄ですか、そんなに魅力のあるところなんですか」 省三はキャサリンのことを思った。 「省三には分かるまいが、みんな極楽だと思っているが、俺には地獄に見えるのよ。極楽の喜びも地獄の喜びも紙一重だからな」 善さんは眼差しを遠くへ投げていた。 沖を行く船の汽笛が潮騒を裂いた。 「善さんは石原さんのことを知っていたのですか」 「うん、うすうすわな、なにかあると思っていた。酒も飲まない、喧嘩もしない。ここに来る奴で酒も喧嘩もなしというのはおかしいのよ。何か前を背負っていると思っていた。酒を飲んで酔っ払えばぺらぺらと喋る。喧嘩をしてサッにあげられたら大変だ。・・・とにかく何もしない、真面目に働いていたらサッの目から逃れられる。石原は・・・」 「石原さんは戸籍がでたらめでした」 「言うんじゃないよ。滅多なことを聞くんじゃないよ。奴ら自分が助かる為には人殺しなんか平気でするからな。知ろうとするな。知らないほうがいいのよ。知っていてもそれを自分の心においてきなよ」 波は足元で白く砕けていた。 「色々とあるけど、様々な人がいるけど、みんなそれなりに一所懸命に生きようとしているのだからな。それをじっと見ていりぁあいいのよ」 善さんの声はくぐもっていた。 「省三、御免よ、愚痴ったようだ・・・人間なんてなにかの切掛けで・・・。戦争が何もかも・・・」 善さんは何を思い出しているのだろうと省三は思った。 「おおい、省三!」 遠くで角次の呼ぶ声がした。省三と善さんはその方へ振り返った。(2005/10/13) 6 数日して、石原が捕まったと新聞は報じた。古里へ帰ったところを張り込んでいた刑事に逮捕されたのだった。 「あいつにも故里があったのだな。帰るところがないようなことを言っていたがよ」 善さんは独り言のように呟いた。 外は冷たい雨が降っていた。仕事は休みで、殆どの人夫は町へ遊びに出かけていた。 「善さんだってあるのでしょう、故郷が」 「うん、ある・・・。いや、あったと言った方がいいかな。俺は、今、生きている所が故郷だと思うことにしているんだ。故郷を捨てたときから・・・」 善さんは寂しそうに言って、薄くなった頭髪をかき上げた。 「帰りたいと思ったことはなかったのですか」 「帰りたくないと言えば嘘になる。・・・でもな、帰ったって何もないよ・・・」 善さんはくぐもった顔になった。 「でも、そこで育ったのでしょう」 「ああ」 「じゃあ、あるではありませんか」 「ある・・・なにが」 善さんは厳しい目を省三に向けた。今日の善さんはアルコールが入ってなかった。日焼けした顔がより赤みをおび黒く見えた。 雨はトタン屋根を叩き、窓からの海の景色を閉ざしていた。 「思い出が」 「思い出!」 「石原さんだって、帰るところは故郷しかなかったのですから・・・」 「俺はもう歳だよ。思い出を探す為に故郷へ帰るなんてよ・・・。 それにそんな暇も金もないよ・・・。それよりも何よりもそんな感傷は何処を探しても出てこないよ・・・。誰かが言っていたな・・・人生って奴は、思い出を作ることだと・・・。俺にとっては人生って奴は、思い出を忘れることだったよ・・・。今まで生きてきたのは、その思い出を忘れる為だったのかもしれないよ」 善さんは遠くに眼差しを投げていた。 「善さん」 善さんの体は小刻み振るえ、背に何か重い荷物が乗っているように見えた。 「そう、忘れる為さ。俺を苦しめてきた思い出をよ。俺についてはなれねえ過去をよ」 善さんは丁寧に言葉を落としていた。 善さんは外の人夫とは違っていた。酒に溺れているように見えるが、理性だけは失わなかった。付いて離れないン湖を酒によって忘れようとしているのだが、それはより寂しさを齎す結果となり、ついつい深酒をすることになったのだ。黒田節を歌うのは、その寂しさを忘れる為、辛さから逃げる為、故郷への郷愁を断つためだったのかも知れないが、それはより故郷を蘇らすことになったのだ。早朝の海辺に立っていた善さんこそ今の善さんを語っていたのだ。 省三は善さんを見たように思った。 外の人夫たちは稼いだ金を女に入れあげ二三日帰ってこなかった。パチンコに、マージャンに、花札に、金を使って一時の快楽に浸るのだった。が、善さんはそれを達観したように説教するではなく暖かく見つめてニコニコ笑っていた。 羽目目を外すことが出来るときはどんどん外せと言っているようだった。祖何善さんにも生きて歩んだ過去があったのだ。飯場で生活をしている、そこに善さんの人生の縮図があるのだった。 省三は善さんが砂浜で遠くの海を眺め、肩を落としていた姿を何度か見ていた。何かを祈る姿に、慟哭している姿に見えた。 「おい、省三!女を知っているか」 善さんは何かを振り払うようにいった。 「いいえ」 それは自然に出た言葉だった。省三は善さんの前では素直になれた。 「そうか、市って悪い歳ではないよ。とにかく知って悪いことはないだよ・・・女が天使か悪魔かを・・・」 善さんはぶつぶつと言い、自分を納得させるように頷いた。 省三はキャサリンとの初めてのキッスを思い出し体が熱くなるのを覚えた。 「俺に任せろ、ついて来い」 「は、はい」 省三は戸惑っていた。 「好きな女でもいるのか?」 「・・・いいえ」 省三は声を小さく落とした。 「好きな女がいるのなら辞めといたほうがいが・・・俺も古いな・・・男も女も悲しい生き物よ」 善さんは湿っぽかった。 省三はキャサリンの熱い唇を思っていた。(2005/10/14) 7 「省ちゃん、初めての感想はどう」 省三が砂浜で洗濯物を干していたら、順ちゃんが近寄ってきて言った。 「入らなかったんだ。表まで行ったけど、善さんすっかり酔っ払ってしまって・・・」 「それは残念だったな・・・。今度僕が連れてってやるよ。知るまでさ、女なんて」 「いいよ」 省三は手早く洗濯物を留めながら言った。 あれでよかった。省三はそう思っていた。キャサリンとの事のように、男と女は思わぬところで結びつくように思われたからだった。 売春禁止方法が施行されても元遊郭では公然と売春が行われていた。新開地では昼間から客引きが男の袖を引いていた。長田警察の前でありながら売春宿があった。 善さんと雨の中を二人して遊びに行ったが、結局善さんは女を買わなかった。 善さんには最初からそんなことは出来ることではなかったのだ。女を抱くことで悩みから開放されないのだということを知っているのだった。むしろ、女を抱くことで辛い過去を思い起こし、より苦しみの淵へ導くことを知っていたのかもしれなかった。 電車に乗るとそわそわして降りてから直ぐウィスキーを買ってラッパ飲みをした。 「なぁに、元気付けよ」と善さんは言ったが何かと一生懸命戦っているように省三には思えた。 雨は夜のうちにあがって冬の陽が雲間から零れ海へ降りていた。 「善さんには買えないよ」 順ちゃんが海に小石を投げながら言った。 「どうして」 「それはなぁ・・・今はやめとこう・・・いつか話し時があるだろう・・・。それよりどうしてここに来たんだい」 順ちゃんはそう言って洗濯バサミをパチンパチンと鳴らした。 「どうしてって・・・おじの手伝いにだよ」 「それだけかい・・・僕には分かるんだ・・・夢に破れた、現実が夢を粉々に打ち砕いたんだろう」 「それもあるよ、だけど、とにかくなにかをしたかった・・・」 「ここでは何が出来る」 「さあ・・・」 「みんな愚たらに見えるだろう」 「・・・」 「僕も最初はそう見えた・・・だけどみんな生きていた・・・」 「生きていた・・・」 「自分の為に生きている。誰かの為に生きるって、所詮、自分の為なんだから・・・」 陽射しが雲に入ったのか薄暗くなった。海の色が油色に流れた。 「酒が飲みたいから飲む、女を抱きたいから抱く、眠たいから眠る・・・。僕はここに来て自由を持ったんだ。・・・ここに来る前、親の反対を押し切ってサラリーマンを二年した・・・」 「順ちゃん」 「二年間勤めて・・・何もなかった、何も出来なかった・・・そんな自分に腹を立てた・・・。それから金だけを目的に生きようと決めたんだ。人間には頭を下げまい、金に頭を下げようと決めた・・・」 「何でも目的があっ羨ましいよ」 「みんなそうさ、金に頭を下げているのよ。僕はここで働いて得た金をみんな貯金している。男のロマンは金でしか買えないからさ・・・。才能もない、頭も良くない、そんな僕が夢をかなえられるのは金があればこそだからね」 「それは少し寂しいね」 「それにこの仕事は永遠に残る・・・あれは若い頃、汗と血を流して造ったダムだ、堤防だ、道だってね。青春の証明。それに金が・・・。それが生甲斐でこの仕事をやっているんだ」 順ちゃんの目は泳いでいた。 「そんな生き方、考え方もあるんですね。僕なんか目的もなくのんべんだらりとしていて・・・世間の醜さに嫌気を感じて・・・それを打ち破る努力もしないで・・・」 「僕には目的があるんだ、金を貯めて、ヨットを買って・・・アメリカへ行くんだ・・・そんな夢でもなきゃこの世の中は侘しいよ」 「いいな、その夢」 「夢を夢のままで終わらせないよ。やりたいことをやらなくて金を貯めてるんだから」 省三は順ちゃんの考えは分からないではないが、それではさもしい気がしていた。だが、一途に何かに向って突き進んでいる姿を羨ましいと思った。 「僕は金の亡者ょ。それでいいのよ、誰がなんと言おうと耳にしない、気にしない。ここには個人の自由があるからね。僕は気に入っているんだ。・・・省ちゃんがどのように思おうが、そんなこと関係ない。・・・今日も雨になるのかなぁいやな雲行きだよ」 順ちゃんはそう言い残して踵を返した。 いろいろな人がいて、いろいろな人と出会い、色々な考えに触れる、それが人生かと省三は思った。 「分かってたまるか」 善さんの声が耳の奥で繰り返されていた。 省三は努めてみんなの中へ入ろうとした。厳つい人もいる、言葉の汚い人もいる、服装の整わない人もいる、体に墨を入れている人もいる、だが、ここではみんな善良で純粋だった。自由に生きていた。一人ひとりの心を見つめなくては、外見で人を判断してはいけないと分かった。スコップを握り、モッコを担いだ。その苦しさ痛さを味わった。 中には仕事の時間になっても帰ってこない人もいた。省三はその人を迎えに行くのだった。あの男は何処の女と親しくし馴染みかを聞いて出かけるのだった。 省三は長靴を穿きジャンパーの襟を立てて出かけた。 ベニヤ板一枚で部屋は仕切られた小さな部屋が並んでいて、その中で男と女の戯声がしていた。 「いい子がいるよ」とやり手ばばぁが声を掛けるが笑って断り中へ入っていくのだ。やり手ばばぁに案内されて部屋を開けてみると・・・。そんな場面に何度も出くわした。最初の頃は顔を赤らめたが、 「仕事だから帰りましょう」と冷静に言える自分に驚くのだった。 女物の下着を着けて帰る人夫がいて、 「ええ年をして、このスケベー」とからかわれていた。 「女のところから連れて帰れれば一人前だ。省三も一人前になったか」 角次が愛想を言ったのだった。 そんな日々が続いて、省三は段々とここでの生活に染まっていった。 (2005/10/15) 8 現場監督の鳴海は時折工事現場を見て回ってチェックをして帰って行った。妻子を故郷へ残しての単身赴任をしている鳴海に女が出来てセメントを横流しをしていると高山が得意そうに喋った。高山もその分け前を貰い女を買ったと自慢した。 角次は角次で二メートルのパイルを一メートルしか基礎として打ち込まず、残ったパイルをトラックに積んで古鉄屋に売りに行っていた。その代金の半分を取り、残りをみんなに分けた。省三も五百円貰った。その金がどのようなものか分からなかったが、高山から教えられ嫌な思いをした。 善さんと順ちゃんはその事実を知っているのだろうかと思った。順ちゃんが金を貰ったとなると順ちゃんにとっての青春の証明は耐用年数より早く、風と雨と波に跡形もなく消えてしまうのだ。二メートルのパイルを地中に打ち込んで、その上に五メートルのコンクリートの堤防が築かれてこそ何十年も保つのだ。一メートルではどれだけ持つか分からない。セメントも十分に使われず、塩を含んだ海の砂でコンクリ゜と打ちをすると脆く崩れるのが早いのだ。 仕事が中身のない張子の虎のように感じられた。虚しかった。 冬の海は荒れる日が多くなった。波頭は白く弾け、打ち寄せる波は早かった。 省三はキャサリンの家には時折行った。キャサリンの親には日本語の勉強を教えていると言っていたが、日常的な会話を楽しみ遊ぶだけだった。キャサリンといるときだけが心が安らいだ。その心は恋心へ移って行くのを感じていた。日増しにその想いは膨らみ想いを持て余すようになっていた。 師走の半ばを過ぎた頃までに、真新しいコンクリートの堤防は三分の二ほど完成していた。 空は幾重にも雲を重ねていた。海は小波が大波に変わっていた。 省三は堤防に立ちキャサリンのことを考えていた。 「省三、もうあの外人の別嬪とやったんか」 高山がニヤニヤ笑ってそう言い、近寄ってきた。 「いいえ、そんな仲ではありません」 「省三、嘘をついたらあかんで、外人のあそこはどうなっとんや」 「知りません」 「今度紹介してくれや。省三がまだならワイがぶちこんだるよって」 「そんなこととはしていません」 「省三、マスばかり掻いていると体にようないで・・・たまにはさせてもらえや」 「高山さんはそんなことばかり考えているのですか・・・ぼくは・・・」 美しいキャンバスが高山によって汚されていった。甘い夢が現実の醜さの前で萎んでいった。キャサリンが欲しい、抱きたいという欲望に翻弄されるときもあるが、それは自然の成り行きでそうなるべきだと考えていた。 「男とおながすることは一つや。あれしかないんや、はようしたれや・・・。省三は甲斐性なしやから駄目やな。女はやってしまえば自分の女になるんや・・・。 やってしまわんと気が変わるんや・・・これと思う女がいたらやるんや。・・・それが男と女と言うもんや」 高山はそう言って扇動した。省三は胸を熱くなり、キャサリンの白い肌がちらついていた。 「それより、正月には帰られるのですか」 省三は話題を変えた。もうこれ以上キャサリンを辱められることに耐えられなかったからだ。 「うん、帰るで、帰ってから小遣いをもろうて来んと、ろくな女と遊べへんからな・・・。 省三はどうするのや」 「帰ります・・・母をひとり残していますから」 「マザコンの省三か・・・それで女も抱けへんのか」 「違います」 「そんなら、帰るまでにあの別嬪をモノにしてみい、ワイが二万円やるよって」 「嫌です、そんなこと・・・」 「やっぱりそうか・・・」 「なんです」 「省三のこと、人夫たちがインポやというとんや。男と女がやっとるところへ行っても平気な男やと。噂になっとんや」 「あれは仕事ですから」 「それやったら、やってみい。やらなんだら一万円もらんで」 「嫌です」 「怖いんやろ」 「そんな・・・」 「なあに、押し倒し・・・」 「やめてください」 「分かったな、一万円やど」 高山は執拗にからかった。 省三は頭に血が昇っていた。 キャサリンの裸が頭に溢れていた。唇が乳房がお尻が、すんなりとした素足がスライドしていた。 省三は海の水を両手で汲んで頭にかけた。(2005/10/16) 9からは「海の華」2をご覧下さい。フリーページにあります。 海の華(2)はここをクリックください ジャンル別一覧
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